障害者の希望育む

日本勢のメダルラッシュに沸いたバンクーバー冬季パラリンピック。その中で気をはいたのが、計11個のメダルのうち7個を獲得したアルペンスキー競技のチェアスキー勢だ。「後輩たちが、世界のトップレベルに確実に育った」。リレハンメル大会のアルペン・チェアスキーの銀メダリストで、長野大会では選手団主将も務めた野辺地町の四戸龍英さん(57)は、万感の思いで連日の熱戦を見つめた。(佐藤純)

 「金、取りました」。今月20日、弾んだ声の国際電話がバンクーバーから入った。アルペン・スーパー大回転で金メダルに輝いた北海道出身の狩野亮選手(24)だった。「青森に来る時には、金メダル持ってこいよ」。教え子が世界相手につかんだ頂点。うれしさがこみ上げた。

 出会ったのは10年前の2000年冬、北海道で臨んだ障害者スキーのナショナルチームの合宿先だった。父親と見学に訪れた中学3年の少年は、強化選手の滑りを熱いまなざしで見つめていた。話を聞くと、交通事故で脊髄(せきずい)を損傷したのが原因で両足の機能を失い、それでも、大好きなスキーを続けたいと、2年前にチェアスキーを始めたとのことだった。

 「滑りを見てあげようか」。自身と境遇を重ね、指導を買って出た。「独学なので教えてもらったことないんです」。うれしそうにゲレンデに繰り出した少年の滑りは、粗っぽさはあっても、驚くほどうまくスピードに乗れていた。急なカーブで無理をしない自分の滑りとは違った。

 無理にカーブを攻めないのには、わけがあった。高校時代に国体などで活躍し、大学に進んだ1年生の冬、滑降の練習中に転倒し、脊髄損傷で足の機能を奪われた。まだほとんど普及していなかったチェアスキーに33歳で出会い、パラリンピックの正式種目にチェアスキーが加わった1988年以降、5大会連続で出場したベテランも、転倒するのが怖かった。「ずるい滑りなんだ」。最高位は、94年のリレハンメル大会の銀だった。

 2002年のソルトレーク大会でパラリンピックを引退した。後を追うように4年後のトリノ大会に出場した少年は、回転で27位、大回転は途中棄権する大惨敗だった。粗削りな滑りは相変わらず。それでも、トップを狙って果敢に攻める姿勢を貫いた。「それで、いい」。金メダルに届かなかった夢を託した。

 前回トリノ大会の9個を上回るメダルをつかんだバンクーバー大会の閉会式。テレビには、旗手として日の丸を掲げる笑顔の狩野選手の姿があった。「やったな」。胸が熱くなった。

 来月、野辺地を訪ねてくる予定だ。その時には伝えようと決めている。「もっと頑張れ、そして記録を伸ばせ。その姿が、障害者たちの希望になるのだ」

(2010年3月28日 読売新聞)

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