母への贖罪 今も 人気塾講師 生涯一度の過ち

古い民家が立ち並ぶ住宅街の一角。その家の二階の窓には、いつも数人の生徒の姿が映っていた。玄関脇には白いヘルメットを引っ掛けた四、五台の自転車。靴音が際だつほど静かな夜空に、声が響いていた。「分かるか、ここが試験に出るんや」-。

 富山県氷見市の中心部で、看板も生徒募集の案内もない学習塾。「民家で名もない塾を何十年もやってた。この辺りにもナントカ塾とかアカデミーとか、いっぱいあるのに。それだけで息子さんの人柄が分かる」。近所に住む三十代の女性が振り返る。

 「あのころは、つばを飛ばすほど熱くなって教えていた」。今、その家に独りで暮らす塾の元講師の男性(57)は目を閉じ「もうそんな資格ない」。数え切れない生徒を励まし、導いた「先生」の声はすっかり小さくなっていた。

 二〇〇四年八月、同居する母親=当時(80)=に暴行して死なせ、傷害致死の罪で〇五年二月に懲役四年六月の実刑判決を受けた。足が不自由で、紙おむつを使う母親を一人で介護。行き詰まった末の悲劇だった。

 服役中、同室の受刑者から「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を百万遍書くと、罪が消える」と聞き、贖罪(しょくざい)の一心でペンを握った。重ねたノートは二十二冊。四十万回に達した時、刑期を終えた。出所して一年が過ぎた今も自責の念にさいなまれる。

 両親との三人家族だった。大正生まれで寡黙な父と社交的で教育に熱心な母。「楽しみは家族で行く週一回の銭湯だった」と振り返る。

 地元の高校から関東の大学へ。鉄鉱の研究に没頭しエンジニアを夢見たが、石油ショックで就職が難航。「おやじが『地元に戻ってこいや』と。うれしかった」。帰郷してすぐ、近所の知人に声を掛けられた。「うちの子の勉強、ちょっと見てくれんか」。一人、また一人と増え、気がつけば学習塾になっていた。

 自宅二階の八畳間二つを開放した教室。畳の上に長机を置き、並べた五、六枚の座布団に生徒が座った。小さな黒板はベニヤ板に墨を塗った、父の手作りだった。きめ細かな指導が評判になり「大勢やと目が行き届かん」と入塾を断ることもあった。

 独身のまま二十年余りが過ぎた一九九七年、介護する母にみとられて父が亡くなり、五年後、母が自宅の廊下で転倒し家事一切ができなくなると、生活は激変した。

 炊事に掃除、洗濯…。そこに母の介護が加わった。戸惑うばかりの毎日で、受験を控えた生徒を思うと、重圧で押しつぶされそうになった。体調を崩し、塾と介護の両立を断念。天職と思って運営してきた塾を閉じ、介護に専念する日常が始まった。

  ◇    ◇

 介護をめぐる親子間の傷害致死事件。ケアマネジャーは警察の調べに「母親は認知症」と証言したが、介護する息子は気づいていなかった。致命傷となった生涯に一度の母への暴行。判決は、認知症の介護者が陥りがちな混乱と孤独には触れず「一時の激情に走り身勝手」と断じた。地域の信頼を集めた「塾の先生」に何が起きていたのか。服役を終えた本人に当時のことを聴きながら、事件を検証する。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA